実際、頭で考えてみると不思議な感覚があります。
ガスや電気といったライフラインの発達した時代に、どうして薪を拾って火をおこそうなどと考えるのか。スーパーへ行けば魚は売られているというのに、わざわざ自分で釣る必要があるのか。これらは不合理・非効率という言葉を用いれば、いとも簡単に否定できてしまいます。
しかし、それでも我々は自然の中で、自分の力だけで生活できないものか試してみないではいられません。
アウトドアは、不思議な魅力で私たちの心を惹きつけて止みません。
それは、なぜでしょうか?
様々な理由付けが可能でしょうが、一つにはアウトドアによって、自分が人間であることを確認しているのではないかと思います。というのも、そこに人間と動物を分ける大きな要因が隠れているように思うからです。
動物というのは、与えられた環境に適応する以外には何ら生きる手段を持ちません。
餌がなくなれば飢え、日照りが続けば渇くのが動物です。
ですが、人間は違います。食べ物を自ら生産しようと農業を始め、日照りに備えて貯水することができます。
人間は、周囲の環境を自分たちに合わせて変えてゆくことで生きてきました。
自分の力で自然を切り拓き、生きる手段を確保することが、人間の人間たる証明なのです。
現在、街はすっかり整備され、個々人がそう必死にならずとも生きていくのに不自由はありません。
用意された環境に浸って、ただ何となく適応していれば問題なく生活できます。
しかし、これはある意味で、日常における人間の生活が動物の域に堕したと考えることも可能なのではないでしょうか。
我々が文明の最先端ともいえるこの時代に、大自然の中でアウトドアをするという行為の裏側には、環境を作りかえて生活レベルを進歩させてきたという人間の自負が見え隠れしているとは思いませんか?
今一度、環境と対峙することで、人間という種のアイデンティティを取り戻そうとしているようにも感じられます。