故郷という言葉の響きには、どこか懐かしさが伴います。その言葉だけで安心できるような、不思議な懐かしさです。
辞書的な意味でいうなら、故郷という語が指すのは「生まれ育った場所」のことだと思います。ですから、東京生まれの人にとっては東京が故郷ということになります。しかし、我々は「故郷=東京」と図式には、どうも形容しがたい違和感を覚えます。故郷というのは田舎になければならない、という思い込み・先入観をどうしてもぬぐい去ることができないのです。
実際、我々は故郷の風景について語る時、そこに現れる単語は「山」「森林」「野原」といった静なるイメージを持っているはずだ、と無意識のうちに予期してしまっています。東京出身者が語るからといって「高層ビル」「地下鉄」「タワー」といった単語を「故郷」と結びつけることはなかなか許されることではありません。これは、一体どうしてでしょうか?
恐らく、我々が故郷と表現するのは、物質的な意味での「生まれた場所」ではないからだと思います。故郷という言葉とセットで使われる言葉に「帰る」という語があります。文章の中で故郷という言葉を使う場合、基本的には「故郷に帰る」または「故郷を思い出す」といった文脈で用いられます。「故郷からどこどこへ引っ越した」とか「生まれてからずっと故郷に住んでいる」というような文脈で使われることは稀です。これは、故郷という言葉に対し、いつか帰るところであるという印象を、我々が抱いているからに他なりません。まさに、故郷は遠く離れて想うものなのです。
故郷というのは「そこから始まり、またそこへ帰って行く」という母体回帰の幻想の中に揺らぐ語なのでしょう。
どこからか産まれ、また死んでどこかへ消えていく。その恐怖から逃れるために「死」という概念には天国・極楽などといった正のイメージを付随することがあります。同じように、精神的に安心できる・そこへ帰れば何とかなるといったイメージが、故郷には求められているように思えます。
だから、都会はそこで生まれ育ったとしても故郷にはなり得ないのです。効率的に管理が行き届いた都市部の暮らしは現実感が強すぎて、幻想的なイメージを持たせる対象としてふさわしくないからです。また、東京で生まれ育って、そのまま都内で働いている人であれば、生まれた街から離れたことがないのですから、故郷という概念そのものを持ち得ません。
また、故郷という言葉は、辞書の中ではなく、人々の安寧を求める心の動きを示す語なのだと言い換えても良いかもしれません。その証拠に、都会出身の人が初めて訪れる田舎町を見て「故郷」という感覚を覚えることが挙げられます。どこで生まれ育ったかという事実とは関係なく、我々は牧歌的な風景から「故郷」という単語を想起します。そういった風景に、理由も分からないまま、強い安心感を覚えます。
自然豊かな田舎に自分の居場所をつくるということは、まさしく故郷を持つことだと言えるでしょう。生まれ育った場所がどこであれ、人は木々と山に囲まれたのどかな風景を「故郷」と呼んで恋しく思うものなのですから。
いつか帰るところ、があるということ。その事実は他のどんなものよりも、人の心を穏やかに優しく包み込んでくれることでしょう。