文学と別荘地

明治時代に日本文化の最先端で活動していた知識人は歌人や小説家などの文学者でした。絵画や彫刻など具象化された創作物を鑑賞する芸術とは異なり、文字で事象を表現する文学は書き手の感性が読み手の想像力をいかにかきたてることができるかという特殊な表現形態を持つ芸術です。

すなわち、紙に印字された活字が読者の頭の中にあるスクリーンに映像として表出させる働きを持っているのです。このことから文学には表現者の人生観が投影されることが多く、不特定多数の読者に訴えかける作品を著すには作家がペンをとる場所の周辺環境によって、その成果が大きく左右されるといわれています。

明治以降の文学には作家の「居場所」として豊かな自然環境が不可欠であり、それらの土地で生み出された有名作家の作品群は「別荘文化」という言葉で語られるようになりました。その別荘地の中でも実に多くの作家に愛された土地、つまり「文学を生む場所」として蓼科の名は長く記憶されることとなります。

伊藤左千夫と蓼科の自然

美しい抒情性とみずみずしい表現で多くの読者を感動させた歌人で小説家の「伊藤左千夫(いとう・さちお)」は蓼科に縁が深い、いわゆる「蓼科文学」作家の一人です。 十代の男女の悲恋物語「野菊の墓」で有名な伊藤左千夫は執筆のために同人「アララギ」の仲間たちと共にたびたび蓼科を訪れ、その環境の素晴らしさに驚嘆し、蓼科に関する13の詩を残しています。その一つ。

信濃には八十の郡山ありといえど女の神山の蓼科われは

蓼科高原から望む雄大で神々しい山々の情景が眼に浮かぶ素晴らしい詩です。そしてもう一篇。

さびしさの極みに堪えて天地に寄する命をつくづくと思ふ

これは死期が迫った自分の人生を振り返り、脳裏に去来する蓼科の自然の畏怖心を謳った伊藤左千夫の絶唱といわれている詩です。蓼科の荘厳な大自然はまさに人間の生きる意味を私たちに問いかけているかのようです。

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