ソ連時代に変質した「ダーチャ」
その後、共産革命によって帝政は終焉しソビエト連邦の時代となると、貴族階級の別荘として機能していた大規模なダーチャとその周辺の菜園や家畜場はすべてソ連国家の所有物となり、一般国民の保養施設となって整備されていくこととなります。
日本における企業・団体の保養・レクレーション施設を国家的規模で再編成したものがソ連時代のダーチャといってよいでしょう。本来、別荘とは個人が自身の家族単位で所有する休息のための建物であり、国家が管理する施設とは相容れない性質のものです。しかしながら、土地や家屋の私有財産化を認めない社会主義国家体制下のソ連ではダーチャの個人所有も当然許されず、このような形に様変わりしてしまったのです。
食料の自給自足・貯蔵施設として
プロレタリア階級による共産革命を実現した当時のソ連政府は、意外にもブルジョワ階級社会における別荘文化の象徴的存在でもあったダーチャを取り壊したりはせず、ロシア固有の文化を国家管理のもとに継承し、これを国民の保養施設に改変するという政策を選択したのでした。
こうして、ソ連時代にはダーチャは各地域の労働組合が管理し、その土地の農民たちに貸し出され、食糧難の時代には農民が菜園で自給自足をして飢えをしのぎ、ダーチャは食料を保管しておく貯蔵施設として利用されていました。個人的な贅沢がご法度だったこの当時は、ダーチャはかつての別荘の建物ではなく、その土地の農民たちにとって貴重な食料の摂取に関わる重要な建物として機能していたのです。